ありがとうって伝えたくて…
写真の女性は、うら若き頃の立花冷子女王様です。
40代のM男性なら、そのお名前ぐらいは耳にした覚えがあるかも知れません。 あるいは50代以上のベテランM男性の方でしたら、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
日本におけるSMの黎明期を牽引してきた特殊性風俗探求サークル・美芸会。
その顔として多くのM男性を魅了し、長きに渡り彼らの頭上に君臨し続けた伝説の女王様です。
ご主人様が僕にとってマゾヒズムの終着点だとするならば、冷子女王様は僕のマゾヒズムの出発点でした。
美芸会は1966年に大阪府寝屋川市で松田富治男会長のもと産声を上げ、その後、1971年に静岡県清水市に移転。 さらに1980年頃東京へと進出します。 西新宿の雑居ビルに本部を構え、美芸会、姉妹会の松田企画、立花プロモートなる直営の芸能プロダクションも有していました。 池袋にも事務所とプレイルームがあり、主にそちらを拠点にしていたようです。
マスコミ効果か、この頃会員はうなぎ登りに増え、各地に支部を置いて冷子女王様や女性役員も日本全国を忙しく飛び回っていました。
松田会長ご自身はS性癖を持ったかたで、美芸会はS、Mの両方の愛好者を対象にしていました。
会長とは池袋の事務所近くの喫茶店で一度お会いした事がありますが、スラリと背の高いダンディな印象の紳士でした。
その松田会長の奥様が立花冷子女王様でした。
確か松田会長が新幹線の車中で、強烈な女王様オーラを発していた冷子女王様を見初め、会にスカウトされたのがお二人の馴れ初めだったと記憶しています。
吸い込まれるような大きく澄んだ瞳とエキゾチックなお顔立ち。 高音でよく通るソプラノボイス。
よどみなく口を突いて出る言葉責めは、素晴らしい!の一言でした。
美芸会は、清水市にあった頃から女性誌や総合週刊誌、テレビの深夜番組等で取り上げられ話題になっていました。 僕がその存在を知ったのは確か高校生の頃だったと思います。
11PMなる深夜のお色気番組で、カルーセル麻紀が美芸会に潜入ルポを行った回を偶然観たのでした。 カルーセル麻紀は番組の前半では奴隷として冷子女王様に責められ、後半は女王様として会員のM男性を調教していました。
美芸会はS性癖を持った人にもMの心理を理解させる為に最初の数回はMの体験をさせますので、これはその会則にのっとったものだと思います。
「どうするの?飲むの?飲まないの⁉︎」
鞭を片手に、聖水を完飲するよう迫る冷子女王様のお声が今も耳もとで鮮やかに蘇ります。
奴隷がやっと一人入れる位の狭くて頑丈な鉄の檻。 壁にディスプレイされたおぞましい拷問具の数々。 エロティックな黒い下着姿で笑いながら鞭を振るう美貌の女性…
当時の僕は自分のマゾヒズムを持て余して悶々としていましたが、初めて映像でその甘美な世界に触れて、その後しばらくは興奮が収まりませんでした。
何しろSMの情報自体が、とても少なかった時代です。 自分が長年夢想していた世界が実在していた事に感動すら覚えました。
そしてその後 自慰の時に思い描く光景は、あの拷問部屋で来る日も来る日も美しい女性達に肉体を責め苛まれ、歓喜の悲鳴をあげる己が姿でした。
その後、5年ほど経ってからでしょうか。
すでに成人していた僕は、古書店でSM雑誌を漁る日々を送っていました。
新刊書店のアダルトコーナーは明る過ぎて抵抗がありましたが、古書店の仄暗い棚の下にカビ臭い本が雑然と積み上げられているさまは、まさにその背徳的で淫靡な世界を象徴しているかのようでした。
そのお宝の山から、女王様のPhotoやイラスト、男性Mの記事ができるだけ多く掲載されている本を探し出すのが僕の目的でした。 悲しいかな、まだマゾ男性の専門誌など存在しない時代でした。
本が透明の袋に密封されている店では勘だけが頼りでした。 家に持ち帰って封印を解き、男性Mの記事が一本も載っていないと知った時などは、この世の終わりのように落胆しました。
そのうち「SMコレクター」や「SM奇譚」あたりなら、少なくとも1〜2本はM記事が保証されている事が分かり、その2誌を集中して買うようになりました。
新刊書店のレジに立つ若い女性店員にSM誌を手渡すのはかなり勇気がいりましたが、古書店の年老いた店主の前にはなんら抵抗なく差し出すことができました。
老店主は眼鏡の奥からチラリと僕を一瞥し、一瞬「またお前か…」とでも言いたげな顔をして視線をそらし、本を紙袋に投入しました。
性的な雑誌はできれば新本で買いたいところでしたが、月刊ペースの刊行では到底僕の渇望を癒せるはずもありませんでした。 さらにこの山積みされた雑誌群は、同じ性癖を持つ誰かが一度手にしたという安心感がありました。
これだけ店頭に並べるという事は、自分の住む街にもこうした特殊な性に興味を持つ同志が少なからず潜んでいる事を証明しています。 僕は長い間、自分だけが“変態”なのだと思い込んできたので、多少なりとも孤独感を埋められるような気がしました。
古書店でめぼしい本を入手してしまうと、次に大量入荷するまで新刊書店を探求する事もありました。
まだ未成年に見えるであろう童顔の僕は、その日、店員にとがめられないよう恐る恐るアダルトコーナーに近づいて、レジの目を盗みながらパラパラとSM誌のページを繰っていました。 すると、とある広告記事が目に止まったのです。
『あの有名な立花冷子女王様率いる美芸会の姉妹会・松田企画が、新規会員を若干名募集します!』
おそらくそんな文面だったと思います。 すぐさまあの時の潜入ルポの映像が蘇りました。
僕は矢も盾もたまらずその本を購入すると、大急ぎで帰宅の途に就きました。 そして件の広告記事を何度も読み返し、あの美貌の女王に鞭打たれ女性の様な鳴き声を上げている自分の姿を想像し、自慰に耽りました。
目の前に狂おしいほどの巨大なエロスの誘惑がパックリと口を開き、淫らな蜜を溢れさせて僕を誘い込もうとしていました。
ひとたび足を踏み入れようものならばその蜜に足を捕られ、食虫花に呑み込まれた哀れな虫のように全身を溶かされてしまうかもしれない。 しかしそれは抗いがたい誘惑でした。
僕はとりあえず資料を請求する事にして、自分の気持ちを落ち着かせました。
しかし、家に郵送されてくると母親に開封される危険があったので、友人数名と趣味のために借りていたアパートの方に送付してもらいました。
1週間ほどするとアパートの自分の机の上に一通の封書が置かれていました。
僕は差出人が松田企画である事を確認すると、はやる気持ちを抑えてそれをカバンにしまい、すぐさま家に引き返しました。
そして自室にこもり、震える指先でそれを開封したのです…
その光景が、まるで昨日の出来事のように思い起されます。
僕はその時の入会案内書を今も大切に保管しています。 それは僕をマゾヒズムの世界へといざなう“禁断のチケット”でした。
表紙の裏には冒頭で紹介した立花冷子女王様のお写真と、複数女性から調教を受けている男性会員の写真が貼り付けられています。 おそらくネガをベタ焼きし、一枚ずつカッターで裁断して貼り付けたものでしょう。
謄写版で印刷しホッチキスで閉じただけの簡素な案内書を見ると、あれから長い長い歳月が流れた事を実感します。
松田企画は適性を測るためのカウセリング、実際の調教、審査を経て入会が許可されました。
会員資格の取得はさほど難しいことではなかったと思いますが、入会時に住所や電話番号等個人情報の提示を求められたので、それなりの覚悟は必要でした。
そして今よりも敷居が高かった分、その秘匿性や背徳感も何倍も大きかったと思われます。
僕は散々悩みましたが、立花冷子女王様にお目にかかりたくて、松田企画に入会申込書を送付しました。
当時はまだSMクラブなるものは少なく、今のように気軽にプレイを楽しめるような環境は整っていませんでした。
当然マゾヒズムを理解し、マゾヒストに対応できる女性も少なかったのです。 プレイ料金も高額に設定され、SMは一部のお金持ちだけが享受できる高級な遊びでした。
松田企画が謳っていたのは、経済的余裕の少ないものや学生でも平等にSMの趣味や性癖を楽しめる事を目的にした会だという事です。
今、手元にある入会案内書の必要会費の欄を見ると入会金5千円、維持会費が月額650円で1年分前納とあります。
それとは別にプレイ代として毎回60分2万円が必要でした。
物価の変動を考えてみると、現在の方が相当安い価格でSMを楽しむ事ができますが、当時はこれでもかなり安価な方だったようです。
女王様の絶対数が少なかった為、SMは売り手市場でした。
SMクラブには指名システムなどもまだ無く、待機している女王様も1〜2名で、空いているかたがお相手をして下さるといった感じでした。
池袋の事務所で初めてお会いした冷子女王様は僕よりもだいぶ年長な印象で、その頃すでにアラフォーといったふうでした。
しかし間違いなく類い稀なる美貌と、サディスティックなオーラを持った一流の女王様でした。
冷子女王様のもとで、現在の僕のマゾヒズムの基礎はほぼ完成したと言ってもいいと思います。
SMプレイのメニューとされるものは、黄金プレイ以外はほとんど体験させて頂きました。
当時はあまりお金を持っていませんでしたが、それでも年に7〜8回位は通ったと思います。
プレイの間が空くと、冷子女王様自ら直接家に電話を下さることもあり、母親が応対した時もありました。
僕は居間にいる母親の面前で顔を赤らめ、話の内容がわからないように小声でハイ…ハイと相槌を打つのがせい一杯でした。
ガールフレンドにしては落ちつき過ぎていて、どんな関係の女性なのか母は訝しんでいたようですが、特に問いただされる事もなかったのが救いでした。
冷子女王様はお金がない時でも、後払いでプレイをして下さる事もありました。
そして未熟な奴隷がどんなに粗相をしても、プレイが終わると暖かく接して下さいました。
慈愛に満ちた菩薩のような懐の深さを持った女性でした。
それまで僕が、誰にも言えず一人で抱え込んでいた心の闇を解放して下さり、どれだけ救われたことかわかりません。
その後 時は流れてインターネット全盛の時代となり、ネット上で見つけた冷子女王様の娘さんを名乗る女性の手記を読んだ事がありました。
その内容は立花冷子女王様を知る僕にとって、にわかには信じがたいショッキングなものでした。
しかし、そこに書かれた詳細な記述が、おそらく全て真実であろう事を物語っていました。
それは娘さんが小学4年生の頃、偶然母親の職業を知った衝撃から始まります。
母親を軽蔑し憎むようになった少女は、その反抗心から非行に走り、次々と転落していくのです。
非行、売春、暴力団関係者との交際、覚醒剤、さらに多重人格障害を発症し、その後逮捕、少年院に収監と、これまで彼女が歩んできた壮絶な人生を総括し、赤裸々に綴った告白手記でした。
その長い長い苦悩の日々は、娘さんご本人と彼女を傍で支えて見守ってきた冷子女王様にしか分からないものだと思います。 僕はその手記を読んで涙が溢れ、止みませんでした。
僕を含め数多くの悩めるM男性が救済された陰で、娘さんや冷子女王様ご本人がこんなにも苦しまれていた事が、切なくやりきれませんでした。
そして、今、僕は自らのマゾヒスト人生を振り返ってみて、ここまでSMを続けてこられたのはひとえに冷子女王様が出発点になって下さったからだと感謝しているのです。
立花冷子女王様が今どこでどうしていらっしゃるのかは分かりませんが、感謝の言葉を伝えたいと思いました。
立花冷子女王様。
僕はまだまだ元気で、今も奴隷として娘のように若いご主人様の足下に平伏しています。
こんなにも幸福なマゾヒスト人生を歩んでこられたのは、初めてのSMを冷子女王様にご教示頂いたおかげだと感謝しております。
SM界の legend として語り継がれる、立花冷子女王様のご調教を受けられた事は今も僕の誇りです。
その節は本当に、本当にありがとうございました!
いつまでもお元気でいて、貴女がご調教されたM男達の行く末を見守っていて下さい。