「わたしは…普通の女の子だよ」 お猪口の淵につややかな唇をあて、僕の瞳の奥の反応を探るように見つめながらご主人様はそう仰いました。
その
美しさと輝きはとても普通ではないのだけれど、ご主人様の仰りたい事はわかりました。
随分以前、ご調教中に「ムギは自分の中の私を見過ぎ!」とご注意を受けた事もありました。
普通の女の子。 かつて コンサートの最中、
「私たちは普通の女の子に戻りたい!」とファンの前で涙ながらに訴え、解散した女性アイドルグループがあったっけ。
ファンが求めるイメージを損なわないように、生い立ちや私生活、恋人の存在をひた隠しにし、虚像を演じ続ける事に疲れ果てて消え去っていったアイドル達は、どれほどいたことでしょう。
女王様というのは、ある意味M男が都合良く作り上げた虚像です。
当然ながら、彼女達は女王様である前に1人の人間であり、等身大の女性であるはずです。
女王様がたはM男の夢を壊さないように、理想の女王様像を演じて下さっている。
「プレイ時間外に女王様から敬語を使われると萎える」と言っていたM男性がいました。
接客は不要。 彼は、初対面からタメ口で常に上から目線で接してくれる女王様がお好みなのだそうです。
冷酷に、手加減は一切なしで徹底的に責められ追い込まれたい。
万が一ひどい怪我を負ったとしても、動揺したり申し訳なさそうな顔で謝られると女王様としての資質を疑ってしまう、と。
彼は僕のご主人様をご存知で、「お店にいた頃一度お目にかかりたかったけれど、最後までスケジュールが合わず願いは叶わなかった」と言っていました。
「それでよかったのかもしれない…」と僕は思いました。
ご主人様は、乞われればそうしたふうを装うことはできるだろうけれど、本来そこまで徹底した女王様タイプではないと思うから。
しかし、業界には彼の理想に叶う根っから女王様気質の方々も多勢存在するようです。
僕はSMクラブ通いの頃、女王様に対してそこまで自分の理想を求める事はありませんでした。 M女性に女王様役を演じて頂いた事もありますし、虚像と承知の上で充分SMを楽しむことができました。
僕のご主人様は柔和なお顔立ちをされているので、どちらかと言えばM女性寄りに見られる事が多いかもしれません。
出会った頃は、果たして自分が望んでいるようなハードプレイをお願いしてもいいものかどうか、僕のほうが躊躇うくらい清楚な雰囲気を醸し出しておられました。 しかし、実際にはM性は全く持ち合わせておらず、ハードな責めも躊躇なくこなされる生粋のS女性でした。
ご性格は穏やかで笑顔がとても魅力的ですが、反面、プライドが高く芯の強いかただと思います。
ご調教時はメリハリがあって、僕を緊張させるに十分な威厳をお持ちです。
30年以上SMクラブに通って、唯一、
心から跪きたいと思った女性でした。
プライベート奴隷にして頂いてからは、そんなご主人様と
虚構ではない主従関係を築きたいと真剣に願い続けてきた事だけは確かです。
ご主人様がご自分の事を
「私は普通の女の子だよ」と仰った胸の内には、二回りも歳上の男が真摯に自分の奴隷になりたいと懇願する姿に、今も多少の戸惑いを感じられているからかもしれません。
ご主人様はSMにおいてはハード嗜好ですが、ご調教中は常に僕の反応を観察し、お考えを巡らせながら責めて下さいます。
ブレーキをかける事なく自分が満足するまで徹底的にM男を痛めつける。
そんな無慈悲なS女性を望んでいる向きには物足りないのかもしれませんが、M男性の許容を見極めながら、ほんの少しだけそれを超える事でご自分も支配欲を満たされ、奴隷としての自覚も植え付ける…
そんな手練れは普通の女の子には中々出来る事ではありません。
僕は、ご主人様のSMに“愛情”を感じています。
たとえ形はいびつであっても、SMも男女の愛の一形態には違いありません。
もちろん僕も、ご主人様が“普通の女の子”である事は百も承知しています。
むしろご主人様が普段はあまり女王様オーラを発していないからこそ、ご調教時とのギャップに萌えているのだと思います。
SMクラブを介してお会いしていた頃は、ご挨拶を交わすとすぐに僕が持参したシナリオをお読みになり、そのままストーリープレイに入られていました。 終了するとほとんど雑談を交わす間もなく、慌ただしく次のお客さんの元へと移動されていたので、当時の僕はご主人様が女王様の時のお顔しか知りませんでした。
僕の方もあえて、ご主人様の素顔や私生活には興味を持たないようにしていました。
女王様はいつ突然お辞めになるかわかりません。 あまり深入りし過ぎると、お別れが来た時に辛い思いをする事は経験が教えてくれていたからです。
プレイ後にお忘れ物をされていく事が多かったので、多少そそっかしい面をお持ちなのかなとは思っていましたが、あとは謎のベールに包まれた女性でした。
ところが、店外でお会いするようになってからは、ご調教中に日常的な会話を沢山交わすようになり、そのお人柄やご関心事など、自然と
ご主人様の素顔に触れられるようになりました。
女王様の実像を知ることで、失望を感じてしまうM男もいるかもしれません。 しかし僕の場合は、ご主人様の素顔を知れば知るほどその魅力に惹かれていき、崇拝心も高まっていきました。
ご主人様の事を女王様として崇拝しているというよりは、1人の女性として敬愛し憧れ、崇拝している。 ここ最近、特にその事を強く自覚するようになりました。
昨年の10月3日、ご主人様と僕は主従関係をより一層強固なものにする為の
セレモニーを行いました。
その経緯をブログで公開しようと途中まで書き綴りながら半年が過ぎた今もお蔵入りさせたままなのは、余韻に浸っていたいという気持ちと、あの日から劇的に変わった主従関係を2人だけの秘め事にしておきたいという思いからかもしれません。
その日、セレモニーを終えて、ご主人様と僕は初めてホテルの外でお酒を酌み交わしました。
それまでご主人様は、他に交流をされているM男達とはプライベートでも気軽にお会いになり、お食事やショッピング、SMイベント等をご一緒されていました。 しかし、僕とだけは頑なに、お店の頃と変わらぬ密室のご調教のみで支配と服従の関係を維持されてきたのです。
それはもしかしたら、必要以上に素の自分を見せる事で、僕がご主人様に抱いている崇高とも思えるイメージを損なってはいけないというご配慮からだったのかもしれません。
あるいは自分の事を信奉し過ぎている信者の前で、虚像を演じ続ける事に疲弊されていたのかもしれません。
ご主人様はその当時、「ムギは私の奴隷、他のM男くん達は同じSM趣味を持つ同士のようなものかな…」と仰っていました。
それは僕にとって、この上ない名誉あるお言葉だったはずです。
ところが僕は、他のM男達と遊興を重ね、その様子を楽しげに語るご主人様を見る度に疎外感を覚え、孤独感を深めていきました。
ご主人様とご調教以外の時間にも交流を深めたいという思いは、僕が個人奴隷にして頂いた頃からの願いでした。
しかし、最底辺の奴隷のステータスを望んだのもまた、僕自身だったのです。
僕はご主人様の素顔に触れた事で、人としてご主人様に
熱烈な恋心を抱いてしまったのでした。
それは禁断の片思い。
下から仰ぎ見るだけで十分だったはずなのに…美しい花を咲かせるための養分になりたいと願っていたはずなのに…見返りを求めない愛情を注ぐ事が奴隷の本分だと思っていたはずなのに…
奴隷になりきれない自分との葛藤。 僕は他のM男達に耐え難いジェラシーを覚え、ジレンマに悩み、傷つき、苦しみのあまり一度はご主人様の元から離れようとまで考えました。
けっしてご主人様とノーマルな恋人同士になりたかったわけではない。 男女の深い関係を望んでいたわけでもない。 そんな事は畏れ多い事です。
でも、心と心の奥底では信頼し合い、もっと深い絆で結びついていたい。
その当時、ご主人様とメールで連絡を取り合うのは月に2〜3回程度、内容も日程の調整が主でした。 ケータイ番号を交換してはいたものの、かけた事もかかってきた事も1度もありません。 お会い頂けるのは月に1回、ご調教時の6時間だけ。
それなのに家に1人でいると毎日四六時中ご主人様の事ばかりを考えてしまい、何も手につかず悶々と苦しみ続けていたのです。
お会いしている時は何もかも忘れてご調教に集中できるのですが、ご主人様をお見送りし、ホテルの部屋に1人になった途端、いつも激しい孤独感に襲われました。
このままでは苦しくてどうにかなってしまいそうだ… ご主人様にもご迷惑をおかけしてしまうかもしれない… 当時の僕は、私生活においても様々な心配事やストレスに心を乱されていた時期でもありました。
もう、このまま奴隷を続ける事は限界かもしれない。 しばらくの間、ご主人様とは距離を置きたい… 僕はご主人様にメールで苦しい胸の内を伝え、ご調教の無期限の休養願いを申し出ました。
初めて巡り合った日から数えて5年。 その間、僕にとってご主人様のいない生活は考えられませんでした。
自分がどうなってしまうのか想像すらつかないままに、気がつくと僕はメールの送信ボタンを押していました。
ご主人様は、僕の突然の申し入れに大変驚かれたようです。 身体に焼印でお名前まで入れて頂き、生涯奴隷としてお仕えする事を誓ったはずなのに…。
それまで奴隷という虚像を演じていたのは僕の方だったのかもしれません。 ご主人様は3通に渡る長文のメールを下さり、僕の事を引き留めて下さいました。 そこに書かれていたご主人様の僕に対する思いは、意外でもあり、とても嬉しかった…
今思うと、僕の気持ちを慮って下さったのか、虚実入り混じる内容ではありましたが、お言葉の一つ一つが胸に突き刺さりました。
「泣きながらこのメールを書いているよ。 ムギとはもう二度と会えないかもしれないけれど、共に過ごした時間は忘れないよ。 私の感情を動かしてくれてありがとう…」
僕はすぐにでもご主人様の元へ行き、お足元にすがりつきたい気持ちになりました。
でももう後戻りはできない…
再び必ずご主人様の元に帰ってくる事をお誓いし、僕は一人長いトンネルの中に入って行ったのでした。
それは僕にとって辛く苦しい地獄の日々でした。
精神的にどん底だった頃に巡り合い、すがるように跪いた女神のような存在。
あの頃はご主人様の存在にどれほど救われた事でしょう。
僕は自らその安らぎの場所を捨て、再びどん底へと堕ちていったのです。
その後、抜け殻のようになった僕は新規の仕事をほとんど断り、何もする気力がなく1人家に閉じこもる日が続きました。
灰色で沈鬱な日々。
苦しみから逃れられるどころか益々募るご主人様への想い焦がれ。
一体自分は何をしたかったのだろう?… 今思い返してみてもよくわかりません。 もしかしたら軽いうつ状態だったのかもしれません。
これまでもけっして順風満帆な人生ではありませんでしたが、これほど大きな喪失感を味わい、空虚感を抱いた事はありませんでした。
心にぽっかりと穴が開いたような…
当時の僕にとってこれほどピッタリ当てはまる表現は他に見当たりません。
しかし、それはご主人様と自分の関係性を見つめ直す良い機会でもあったのです。
季節は冬から春へ。
少しずつ暖かくなってきた頃、僕はご主人様との再会を願い出ました。 ちょうど昨年の今頃の事です。
僕は一体どんな顔をしてご主人様にお会いしたらいいのだろう…
信頼を損なう行動をとってしまった事で、主従関係に大きな溝ができてしまったのは間違いない…
そんな事を考えると再会に及び腰になりますが、あまり期間を空けてしまうと今度はご主人様のほうから拒絶されてしまいそうな気がしました。
僕の休養期間に合わせるように、ご主人様と他のM男達の関係もなんとなくギクシャクしてしまったようでした。
メールで
「あれから私も色々と自分の事について考えているよ。 ムギが戻ってくる時まで私は女王様を続けていられるかどうかわからない…」と心細いお言葉を頂きました。
「そんな事は仰らないで下さい。 ご主人様が女王様をご引退されたら、僕には帰る場所が無くなってしまいます。」 自分勝手な事をしておきながら、僕は祈るような気持ちでいました。
しばらくしてご主人様から返信がありました。
「ムギが私の事を女王様と思っていてくれるなら、その間、私はずっと女王様でいられる…」 そのお言葉で僕はハタと気がつきました。
普通の女の子を女王様たらしめているのは、彼女を崇拝する奴隷達の存在である事を… 5ヶ月間の休養を経て奴隷として復活させて頂いた時、ただ一つだけわかった事がありました。
それは
「僕は、ご主人様がいて下さらなくては生きていけない」という事実でした。
ご主人様が自分の人生にとってかけがえのない存在である事を再認識したのです。
そして、僕の存在がご主人様のSMに多大な影響を与えていたという事も改めて知りました。
久しぶりに再会させて頂いたご主人様は、何事もなかったかのように以前どおりの優しい笑顔で僕を迎え入れて下さいました。
「私にどれだけ寂しい思いをさせたと思っているの⁉︎」と仰って、特大のお灸を据えられてしまいましたが、僕の中のわだかまりは氷解していました。
僕は奴隷としてあるまじき行動をとってしまいましたが、結果的にはそれが
ご主人様との絆を深める事になりました。
復帰から約半年後、昨年10月3日に行ったセレモニーでは、それまでの二人の関係を仕切り直し、新たな気持ちで奴隷としてお仕えする事を誓約させて頂きました。
「ムギが他の子達に嫉妬する理由なんか何もないよ。 むしろムギは嫉妬される立場でしょ?」
セレモニーを一通り終えるとご主人様はそう仰って下さいました。
僕はその日以来、自分のプライバシーや個人情報を全て包み隠さずにご主人様の前に開示するようになりました。
真剣に生涯奴隷としてお仕えさせて頂く気持ちがあるのならば当然の事ですが、以前の僕にはそこまで踏み切れない迷いもあったのです。
ご主人様も僕の真剣な思いに応えて下さり、ありのままのお姿を見せて下さるようになりました。
ジグソーパズルのピースを一つ、また一つと…組み合わせていくように、少しずつご主人様の実像が姿を現し始めました。
女王様と奴隷の距離はかつてないほど近づいていました。
距離が近づけば近づくほどご主人様が仰っていた普通さも沢山見えてきました。 その中にはもしかしたら知らないほうがよかったのかも…と思えるような事実もありました。
心がざわざわしたり、ヒリヒリしたりする事もありました。
けれども、ご主人様の真実のお姿を受け容れていく事は、真の奴隷になるためには必要不可欠な事だと思えました。 ご主人様の実像を知らないままでは、本物の崇拝ではないような気がしていたのです。
両者が虚像を捨てて向かい合い、改めて僕がご主人様の前に跪いた瞬間に、初めて
本物の主従関係が築かれたと思いました。
しかし、たとえどんなにご主人様との距離が近づいたとしても、僕は決して
奴隷の立場を忘れる事はありません。
ご主人様との主従関係は新たなステージを迎えつつある…
そんな実感に今、奴隷の胸は激しくときめいているのです。