顔面騎乗主義者の死
“メメント・モリ”と言う言葉があります。
生きとし生けるものにはいつか必ず“死”の瞬間が訪れる。 自分自身もいつか死を迎える事を忘れるな…というような意味だったと思います。
しかし、愛してやまなかったものの突然の死は、そうした死生観を理解していたとしても受け入れ難く、如何ともしがたい悲しみに襲われ失意のどん底に突き落とされます。
僕には、親の死よりも衝撃的で悲しかった経験があります。
漫画家、手塚治虫の死を知った時の事です。
孤独な幼少年期を過ごした僕は、手塚漫画に支えられ、育てられたと言っても過言ではありません。
だから氏の訃報を知った時、僕は一人、部屋に籠って泣き明かしました。
4月25日付けの「マゾヒズムに花束を!」の記事で、世界的なfemdomアーティストである春川ナミオ画伯の訃報を知りました。
手塚治虫の死を知った時と同様の衝撃が走りました。
僕は春川画伯の描く作品の単なる一ファンに過ぎません。 氏とは一度もお目にかかった事はありませんし、ご本名もお顔も、どういう経歴の持ち主なのかも存じ上げません。
しかし、氏が50年以上に渡って描き続けてきた独自の世界観は、マゾヒストである僕の心を捉え今も魅了して止みません。
僕は、自分がハッキリと陽と陰を併せ持った人間であるという自覚があります。
メジャーな物を好む裏で、同時にアンダーグラウンドなものにも強く心を惹かれます。
漫画や映画や、絵画や音楽や、小説や写真など全ての芸術的分野の好みにおいて、そういう二面性の傾向があります。 それは我がマゾヒズムと密接な関係があるのかもしれません。
春川画伯は、そんな僕のダークサイドを育て、支えて下さった恩人だと思っています。
前回の自伝漫画にも描きましたが、自らのマゾヒズムを持て余していた学生時代、古書店に入り浸り大量のSM雑誌の山から数少ないM男情報を漁っていた日々の中で、春川画伯の描くfemdomアートは僕のマゾヒズムへの渇望を癒し、忘我の時を与えてくれました。
溜まりに溜まったSM雑誌の隠し場所に頭を悩ませ、泣く泣く処分を考えた時も春川画伯のグラビアページだけは切り抜いて大切に保存しておきました。 ポージングだけの女王様の写真よりも妄想力を掻き立ててくれる春川アートの方がお気に入りだったのです。
ネットにfemdom情報が溢れ、若干食傷気味になった現在でも春川画伯の作品だけは特別です。 僕のマゾヒズムの原点であり故郷のような存在なのです。
絵を描くというのは孤独な作業です。
特定のマニアにだけ向けた創作ならば、なおさらかもしれません。
ただ春川画伯は、自らの女体崇拝や巨尻信仰に没頭し、あたかも円空が生涯をかけて彫り続けた12万体とも言われる木彫りの仏像の如く、彼もまた生涯をかけてあの膨大な作品群を紡ぎ上げていったのではないかと想像します。
見る者をほとんど意識する事なく、自らの妄想を具現化する事だけに傾注されていたのではないかと窺えるのです。
そして一度描き終えてしまった作品にはあまり執着はないようです。気前よく人にプレゼントしたり、展示会で販売したりして手元に置いておく事にこだわりはないように感じます。
もしかしたら特殊な絵という事で、軽く見られているであろう怨念や諦めのようなものがあったのかもしれません。
女性は圧倒的な存在であってほしい。女性のお尻はともかくもっと神秘的であってほしい。
謎めいたパーツと化したお尻の奥には一体何があるのだろう…
生前、巨匠はインタビューでそう答えていました。僕も同感です。
それは、女体や、崇高な女性の秘部への信仰心とも言える強い思いです。
完全無欠な美を纏った女体群と醜く矮小な男達との対比は、絶対的主従の法則を明らかにしています。
以前、homerさんが監督された北川ビデオ「顔面騎乗に花束を!」の中で、顔を半分隠してインタビューに答えておられる春川画伯のお姿を拝見した事があります。 その穏やかな物言いと優しそうな雰囲気の中にも繊細で神経質で几帳面そうな一面、強固な意思のようなものも窺え、それまで自分が思い描いていた画伯のイメージとあまりにもピッタリだったので妙な親近感を覚えたものでした。
昨年上梓された、春川画伯の50年の画業を凝縮した「春川ナミオ画集」。
当時ネットで買い求め、著者サイン入りを入手する事ができました。
そして、とある方から贈って頂いた春川画伯の迫真の直筆原画。
これらは春川画伯が亡くなった後も、常に彼の存在を身近に感じさせてくれる、僕の宝物になりました。
我がマゾヒズム人生に大いなる夢と希望を与えて下さった春川ナミオ画伯に改めて感謝の気持ちを捧げ、偉大なる存在でありながらメディアにその死を取り上げられる事もなく静かに逝ってしまった孤高の画家の画業を讃え、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
春川ナミオ画伯、長い間、本当にありがとうございました。そしてこれからも永遠に…
生きとし生けるものにはいつか必ず“死”の瞬間が訪れる。 自分自身もいつか死を迎える事を忘れるな…というような意味だったと思います。
しかし、愛してやまなかったものの突然の死は、そうした死生観を理解していたとしても受け入れ難く、如何ともしがたい悲しみに襲われ失意のどん底に突き落とされます。
僕には、親の死よりも衝撃的で悲しかった経験があります。
漫画家、手塚治虫の死を知った時の事です。
孤独な幼少年期を過ごした僕は、手塚漫画に支えられ、育てられたと言っても過言ではありません。
だから氏の訃報を知った時、僕は一人、部屋に籠って泣き明かしました。
4月25日付けの「マゾヒズムに花束を!」の記事で、世界的なfemdomアーティストである春川ナミオ画伯の訃報を知りました。
手塚治虫の死を知った時と同様の衝撃が走りました。
僕は春川画伯の描く作品の単なる一ファンに過ぎません。 氏とは一度もお目にかかった事はありませんし、ご本名もお顔も、どういう経歴の持ち主なのかも存じ上げません。
しかし、氏が50年以上に渡って描き続けてきた独自の世界観は、マゾヒストである僕の心を捉え今も魅了して止みません。
僕は、自分がハッキリと陽と陰を併せ持った人間であるという自覚があります。
メジャーな物を好む裏で、同時にアンダーグラウンドなものにも強く心を惹かれます。
漫画や映画や、絵画や音楽や、小説や写真など全ての芸術的分野の好みにおいて、そういう二面性の傾向があります。 それは我がマゾヒズムと密接な関係があるのかもしれません。
春川画伯は、そんな僕のダークサイドを育て、支えて下さった恩人だと思っています。
前回の自伝漫画にも描きましたが、自らのマゾヒズムを持て余していた学生時代、古書店に入り浸り大量のSM雑誌の山から数少ないM男情報を漁っていた日々の中で、春川画伯の描くfemdomアートは僕のマゾヒズムへの渇望を癒し、忘我の時を与えてくれました。
溜まりに溜まったSM雑誌の隠し場所に頭を悩ませ、泣く泣く処分を考えた時も春川画伯のグラビアページだけは切り抜いて大切に保存しておきました。 ポージングだけの女王様の写真よりも妄想力を掻き立ててくれる春川アートの方がお気に入りだったのです。
ネットにfemdom情報が溢れ、若干食傷気味になった現在でも春川画伯の作品だけは特別です。 僕のマゾヒズムの原点であり故郷のような存在なのです。
絵を描くというのは孤独な作業です。
特定のマニアにだけ向けた創作ならば、なおさらかもしれません。
ただ春川画伯は、自らの女体崇拝や巨尻信仰に没頭し、あたかも円空が生涯をかけて彫り続けた12万体とも言われる木彫りの仏像の如く、彼もまた生涯をかけてあの膨大な作品群を紡ぎ上げていったのではないかと想像します。
見る者をほとんど意識する事なく、自らの妄想を具現化する事だけに傾注されていたのではないかと窺えるのです。
そして一度描き終えてしまった作品にはあまり執着はないようです。気前よく人にプレゼントしたり、展示会で販売したりして手元に置いておく事にこだわりはないように感じます。
もしかしたら特殊な絵という事で、軽く見られているであろう怨念や諦めのようなものがあったのかもしれません。
女性は圧倒的な存在であってほしい。女性のお尻はともかくもっと神秘的であってほしい。
謎めいたパーツと化したお尻の奥には一体何があるのだろう…
生前、巨匠はインタビューでそう答えていました。僕も同感です。
それは、女体や、崇高な女性の秘部への信仰心とも言える強い思いです。
完全無欠な美を纏った女体群と醜く矮小な男達との対比は、絶対的主従の法則を明らかにしています。
以前、homerさんが監督された北川ビデオ「顔面騎乗に花束を!」の中で、顔を半分隠してインタビューに答えておられる春川画伯のお姿を拝見した事があります。 その穏やかな物言いと優しそうな雰囲気の中にも繊細で神経質で几帳面そうな一面、強固な意思のようなものも窺え、それまで自分が思い描いていた画伯のイメージとあまりにもピッタリだったので妙な親近感を覚えたものでした。
昨年上梓された、春川画伯の50年の画業を凝縮した「春川ナミオ画集」。
当時ネットで買い求め、著者サイン入りを入手する事ができました。
そして、とある方から贈って頂いた春川画伯の迫真の直筆原画。
これらは春川画伯が亡くなった後も、常に彼の存在を身近に感じさせてくれる、僕の宝物になりました。
我がマゾヒズム人生に大いなる夢と希望を与えて下さった春川ナミオ画伯に改めて感謝の気持ちを捧げ、偉大なる存在でありながらメディアにその死を取り上げられる事もなく静かに逝ってしまった孤高の画家の画業を讃え、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
春川ナミオ画伯、長い間、本当にありがとうございました。そしてこれからも永遠に…
あるいは巨尻でいっぱいの本
多忙の為、残念ながらヴァニラ画廊で開催中の「春川ナミオ展」には行けそうにない僕ですが…
「マゾヒズムに花束を!」の一日遅れのエープリールフールには、すっかり騙されて、「すわ、これは一大事! 早急に画集を入手しなければ完売してしまうかもしれない!!」と慌ててネットで注文した本が手元に届きました ^ ^
THE INCREDIBLE FEMDOM ART of NAMIO HARUKAWA 春川ナミオ画集 ドミナの玉座、あるいは顔面騎乗主義者の愉楽
勝手に、薄手で大判の画集をイメージしていたら、なんと300ページもの分厚さ! SM誌と同じA5版サイズながらイラストは1ページにつき1点のみ、全285点収録というボリューム。 カラーページ満載。 カバーの折り返しや裏面にも仕掛けありという贅沢な仕様。
濃密で、きめ細やかなモノクロームの引き締まった画面。 SMコレクターやSM奇譚などのグラビアで馴染んだ懐かしい二色刷りの色合い。 春川作品にはこのサイズとこのカラーがよく似合います。
鉛筆の描線を丁寧に執拗なまでに何度も重ねて表現した、美しい女体のフォルムと圧倒的な重量感。 唇や乳首、衣装の花柄やハイヒールなどのポイントに淡い朱色をあしらう事で女性の高貴な美しさや品格、フェミニンな雰囲気や清潔感を際立たせている。
色を多用した4色刷りでは、けっしてあの独特な世界観は表現できないのではないかと思います。
仄暗い密室で、あるいは人気のない屋外で、女と男の異端の秘め事は夜毎繰り返される。
豊満な双臀の谷間や股間の繁みに顔を埋め、女体宇宙を彷徨いながら悟りを開いたであろう男たちの潔さ。
目を閉じて慈しむような笑みを浮かべながら男達を圧殺し、優雅に煙草を燻らせる女神達の偉大さ。
エロスとタナトスの融合。 生と死を行き来する快楽の極致。
60年もの長きに渡って、ひたすら“顔面騎乗”だけを描き続けた孤高の絵師の仕事ぶりにはただただ圧倒されます。
いつか死する瞬間が来たならば、この作品群の中の幸福な男達の様に、偉大なる女体の二つの膨らみに包み込まれ、同化して最期を迎えたい。 そんな思いにさせてくれる1冊でありました。
あまりに本の出来栄えが素晴らしかったので、未購入だった「絵物語 ドミナの園」もついでにポチり、過去の著作の古書価格まで調べていました。
春川画伯のサイン入りが欲しかったので、エディシオン・トレヴィル社の直販を利用した訳ですが、宅配便のお知らせメールや荷物の品名欄に「春川ナミオ画集」と記載されていたのにはちょっと驚きました。 立派なお尻の持ち主のうら若き女性ドライバーさん(←マジです)から荷物を受け取る際には、よからぬ妄想をしてしまった。
「ふぅん…お客さん、こういう趣味があるんだぁ…じゃあ、今度私のお尻に敷いてあげましょうか?」
「えっ!? お…お願いしまひゅ(>_<)」
いまや世界中のマニアや著名人らに愛され、あのマドンナの一推しアーティストでもあるという。
願わくは、いつか美術の教科書に採用され、思春期の女性達の間に「男の顔はお尻に敷くもの」と言う価値観が浸透してくれればいい。
お尻に敷かれて死ねたら本望!
顔騎道と云ふは死ぬ事と見つけたり
春川ナミオを観ずして顔面騎乗を語るなかれ
春川ナミオバンザーーーイ‼︎‼︎
SMアートの巨人たち
日本におけるfemdom art の第一人者と言えば、何と言っても春川ナミオ画伯でしょう。
豊満な肉体を誇る美女が、その象徴的な双臀で、貧相なオス奴隷どもの顔面を虫ケラのように押し潰す…
女性の容貌はあくまでも美しく、その肉体美は完璧で、とてつもなく大きな存在として描かれています。 対してオス奴隷たちは例外なく醜く貧弱です。 女性に嬲り殺される為に生きている様な“無用で矮小な存在”として描かれ、両者の圧倒的な力の差が示されます。
氏の作品は、「支配する者とされる者の力学」を鉛筆一本の筆致で見事なまでに表現している“マゾ芸術の極致”と言えるでしょう。
この官能的な作品群は、50年もの長きに渡り多くのマゾ男性たちを魅了し、今もなお他の追随を許しません。
春川氏は、どちらかと言えば硬質で筋肉質な、いわゆるアマゾネスのごとき肉体を持った女性を好んで描かれています。 張り裂けんばかりに膨らんだ巨大な乳房や双臀は、柔らかい脂肪というよりは、弾力性を持った筋肉の鎧の様にも見えます。
切れ長で大きな目と鼻筋の通ったエキゾチックな顔立ちの美女達は、彼の厳然たるアニマとも言える理想のドミナ像なのでしょう。
それらの作品は、BBW(Big Beautiful Woman)というカテゴリーにおいて、海外のマニアからも高い評価を受けています。
男性Mの専門誌が存在しなかったその昔、SM誌の中で異彩を放っていたのが春川氏のM画でした。
一般のSM誌は、緊縛女性のグラビアやS小説が誌面の大半を占めていて、M男性向けの記事が占める割合は、おそらく10%もなかったと思います。 「SM○○」という誌名ながら、M物が全く掲載されていないものすら珍しくなかったのです。 それほど男性Mは異端視され、出版側からは売れないものと判断されていたのでしょう。
そんな中で春川ナミオ氏のMアートは光り輝いていました。 巻頭や巻末のグラビアを飾る4ページ程のイラストに加え、数少ないM小説の挿絵も担当するなど、当時すでにMのビジュアルの代名詞となっていました。
過激な表現を控えていた実写の女王様グラビアに対して、“首も折れよとばかりの重量感”で、マゾ奴隷どもの顔面を圧迫する春川アートは、迫力に満ちあふれていました。
氏の作品には鞭やロウソクなどの小道具はほとんど登場しません。 美女たちは、その圧倒的な肉体を凶器に変えて、哀れな小男達の顔面を蹂躙し、窒息させ、押し潰すのです。
男たちは抗う様子をほとんどみせません。 己の運命を受け入れているかの様にジッと耐えているのです。
それらの絵は不思議な静寂感に包まれています。
彼らは女性の尻の谷間で死ねる事をこの上ない幸福と捉えているかのようです。
この女性の肉体を最大限に生かした責めこそが、女性支配の真髄と呼べるのかもしれません。
さて、同じ時期にS男性の心を捕らえて離さなかったであろう緊縛絵師の活躍がありました。 数多くの官能的な作品を発表し続けていた劇画家でもあり、緊縛画の巨匠としても人気の高かった椋陽児氏です。
彼の描く“いたいけな美少女たちが、あられもない姿で縛られて凌辱されている”緊縛画は、芸術としても一級品だと思います。
処女性を穢され、恥辱にまみれた少女達の羞恥の表情は、秀逸を極めています。 リアルでは中々拝めないような、素晴らしい表情を浮かべているのです。
物憂げであり、悲愴感があり、悲哀感もあり、屈辱感もあり、静かな怒りや己が運命を呪う様な複雑な心情も見事に表現されています。 電車内で他人の目もはばからず、パンツ丸見えで床にあぐらをかいてしまう昨今の少女達には、絶対に浮かべる事ができない表情です(笑)
実際に元ネタとなった素材写真と比較してみても、モデルの女性より遥かに奥深い表情を見せています。
(椋陽児 イラスト&元ネタ展より)
また、椋氏の描く少女達は、華奢で儚げな容姿の娘が多いのですが、女性らしい丸みを帯びた肉感や色白で吸いつくようなもち肌感などの表現も実に素晴らしいものがあります。
実は、僕はこの手の清楚系美少女が大好物で、椋陽児氏には、ぜひ女王様画を描いて頂きたかった。
僕はどちらかと言えば、いかにも男を虐めるのが好きそうなタイプの女王様よりも、清楚で可憐なイメージを持つ女王様に惹かれます。
SMクラブでアルバム指名をする際は、M女寄りの女性を選ぶ傾向が強かったのです。
可憐な容姿と無邪気な冷酷さを併せ持ったギャップ萌えというのが、僕の女王様のツボでした。
椋氏の描く女性はどこか僕のご主人様を彷彿とさせます。
凛々しい眉、吸い込まれるような黒々と大きな瞳、小さくややポッテリとした口元、頬から顎にかけてのライン。
あどけない少女のようなお顔立ちからは想像できない厳しいご調教や冷酷なお仕置きを次々と繰り出され、マゾ男たちを魅了しているのです。
椋氏の劇画作品で、仮面を付けたS女性が描かれていたのを見た記憶があるのですが、それはステロタイプの女王様のイメージを脱けていなかった様な気がします。
そうではなく“羞恥に顔をゆがませていた美少女達”が、男たちに逆襲してきたらこんなイメージになるだろうというような画が見たかったのです。
普段M役に徹しているAV女優さんが、S役に転じると凄まじく冷酷で容赦が無い責めを行いますが、この立場の逆転をアートにして欲しかった。
少々脱線しましたが、SとMの相反する性癖を描いた“SM画壇の双璧”のきら星のごとく光り輝く作品群は、SM界の至宝とも言えるものです。
しかし、異端であるがゆえに中々一般の目に触れることもありませんし、出版数も少ないのが現状です。 出版されてもすぐに入手困難になってしまい、古書価格も高騰してしまうのです。
僕は学生時代に古書で買い集めたSM誌から、春川氏の作品やマゾグラビアを切り抜いて保存していましたが、今となってはこれも大変貴重なコレクションとなりました。
今回のエントリーではその中から夏らしいイメージの物をチョイスしてみました。
近年、幸か不幸か、ネットにおいては春川ナミオ作品が大量にUPされ出回っています。 また最近知ったのですが、長らく絶版だった椋陽児氏の劇画作品も今はKindleなどの電子書籍で手軽に読めるようです。
“マゾヒズムに花束を"の最新エントリーによると、今月17日から銀座のヴァニラ画廊で春川ナミオ氏の作品展が開催されるそうです。
今夏は仕事に忙殺されていて残念ながら時間が取れそうにありませんが、マゾヒストとして生まれたからには、日本が誇るfemdomアートの生の迫力をこの目で確認してから死にたいと思っています。
こうした特殊な絵画展を訪れるのは自己の願望を露呈するようで中々敷居が高いですが、観覧者は皆同好の士かドミナでしょう(笑)
今後も春川氏の益々のご活躍を期待したいと思います。
豊満な肉体を誇る美女が、その象徴的な双臀で、貧相なオス奴隷どもの顔面を虫ケラのように押し潰す…
女性の容貌はあくまでも美しく、その肉体美は完璧で、とてつもなく大きな存在として描かれています。 対してオス奴隷たちは例外なく醜く貧弱です。 女性に嬲り殺される為に生きている様な“無用で矮小な存在”として描かれ、両者の圧倒的な力の差が示されます。
氏の作品は、「支配する者とされる者の力学」を鉛筆一本の筆致で見事なまでに表現している“マゾ芸術の極致”と言えるでしょう。
この官能的な作品群は、50年もの長きに渡り多くのマゾ男性たちを魅了し、今もなお他の追随を許しません。
春川氏は、どちらかと言えば硬質で筋肉質な、いわゆるアマゾネスのごとき肉体を持った女性を好んで描かれています。 張り裂けんばかりに膨らんだ巨大な乳房や双臀は、柔らかい脂肪というよりは、弾力性を持った筋肉の鎧の様にも見えます。
切れ長で大きな目と鼻筋の通ったエキゾチックな顔立ちの美女達は、彼の厳然たるアニマとも言える理想のドミナ像なのでしょう。
それらの作品は、BBW(Big Beautiful Woman)というカテゴリーにおいて、海外のマニアからも高い評価を受けています。
男性Mの専門誌が存在しなかったその昔、SM誌の中で異彩を放っていたのが春川氏のM画でした。
一般のSM誌は、緊縛女性のグラビアやS小説が誌面の大半を占めていて、M男性向けの記事が占める割合は、おそらく10%もなかったと思います。 「SM○○」という誌名ながら、M物が全く掲載されていないものすら珍しくなかったのです。 それほど男性Mは異端視され、出版側からは売れないものと判断されていたのでしょう。
そんな中で春川ナミオ氏のMアートは光り輝いていました。 巻頭や巻末のグラビアを飾る4ページ程のイラストに加え、数少ないM小説の挿絵も担当するなど、当時すでにMのビジュアルの代名詞となっていました。
過激な表現を控えていた実写の女王様グラビアに対して、“首も折れよとばかりの重量感”で、マゾ奴隷どもの顔面を圧迫する春川アートは、迫力に満ちあふれていました。
氏の作品には鞭やロウソクなどの小道具はほとんど登場しません。 美女たちは、その圧倒的な肉体を凶器に変えて、哀れな小男達の顔面を蹂躙し、窒息させ、押し潰すのです。
男たちは抗う様子をほとんどみせません。 己の運命を受け入れているかの様にジッと耐えているのです。
それらの絵は不思議な静寂感に包まれています。
彼らは女性の尻の谷間で死ねる事をこの上ない幸福と捉えているかのようです。
この女性の肉体を最大限に生かした責めこそが、女性支配の真髄と呼べるのかもしれません。
さて、同じ時期にS男性の心を捕らえて離さなかったであろう緊縛絵師の活躍がありました。 数多くの官能的な作品を発表し続けていた劇画家でもあり、緊縛画の巨匠としても人気の高かった椋陽児氏です。
彼の描く“いたいけな美少女たちが、あられもない姿で縛られて凌辱されている”緊縛画は、芸術としても一級品だと思います。
処女性を穢され、恥辱にまみれた少女達の羞恥の表情は、秀逸を極めています。 リアルでは中々拝めないような、素晴らしい表情を浮かべているのです。
物憂げであり、悲愴感があり、悲哀感もあり、屈辱感もあり、静かな怒りや己が運命を呪う様な複雑な心情も見事に表現されています。 電車内で他人の目もはばからず、パンツ丸見えで床にあぐらをかいてしまう昨今の少女達には、絶対に浮かべる事ができない表情です(笑)
実際に元ネタとなった素材写真と比較してみても、モデルの女性より遥かに奥深い表情を見せています。
(椋陽児 イラスト&元ネタ展より)
また、椋氏の描く少女達は、華奢で儚げな容姿の娘が多いのですが、女性らしい丸みを帯びた肉感や色白で吸いつくようなもち肌感などの表現も実に素晴らしいものがあります。
実は、僕はこの手の清楚系美少女が大好物で、椋陽児氏には、ぜひ女王様画を描いて頂きたかった。
僕はどちらかと言えば、いかにも男を虐めるのが好きそうなタイプの女王様よりも、清楚で可憐なイメージを持つ女王様に惹かれます。
SMクラブでアルバム指名をする際は、M女寄りの女性を選ぶ傾向が強かったのです。
可憐な容姿と無邪気な冷酷さを併せ持ったギャップ萌えというのが、僕の女王様のツボでした。
椋氏の描く女性はどこか僕のご主人様を彷彿とさせます。
凛々しい眉、吸い込まれるような黒々と大きな瞳、小さくややポッテリとした口元、頬から顎にかけてのライン。
あどけない少女のようなお顔立ちからは想像できない厳しいご調教や冷酷なお仕置きを次々と繰り出され、マゾ男たちを魅了しているのです。
椋氏の劇画作品で、仮面を付けたS女性が描かれていたのを見た記憶があるのですが、それはステロタイプの女王様のイメージを脱けていなかった様な気がします。
そうではなく“羞恥に顔をゆがませていた美少女達”が、男たちに逆襲してきたらこんなイメージになるだろうというような画が見たかったのです。
普段M役に徹しているAV女優さんが、S役に転じると凄まじく冷酷で容赦が無い責めを行いますが、この立場の逆転をアートにして欲しかった。
少々脱線しましたが、SとMの相反する性癖を描いた“SM画壇の双璧”のきら星のごとく光り輝く作品群は、SM界の至宝とも言えるものです。
しかし、異端であるがゆえに中々一般の目に触れることもありませんし、出版数も少ないのが現状です。 出版されてもすぐに入手困難になってしまい、古書価格も高騰してしまうのです。
僕は学生時代に古書で買い集めたSM誌から、春川氏の作品やマゾグラビアを切り抜いて保存していましたが、今となってはこれも大変貴重なコレクションとなりました。
今回のエントリーではその中から夏らしいイメージの物をチョイスしてみました。
近年、幸か不幸か、ネットにおいては春川ナミオ作品が大量にUPされ出回っています。 また最近知ったのですが、長らく絶版だった椋陽児氏の劇画作品も今はKindleなどの電子書籍で手軽に読めるようです。
“マゾヒズムに花束を"の最新エントリーによると、今月17日から銀座のヴァニラ画廊で春川ナミオ氏の作品展が開催されるそうです。
今夏は仕事に忙殺されていて残念ながら時間が取れそうにありませんが、マゾヒストとして生まれたからには、日本が誇るfemdomアートの生の迫力をこの目で確認してから死にたいと思っています。
こうした特殊な絵画展を訪れるのは自己の願望を露呈するようで中々敷居が高いですが、観覧者は皆同好の士かドミナでしょう(笑)
今後も春川氏の益々のご活躍を期待したいと思います。