マゾヒズムの終焉
僕の人生は、そのほとんどを自己のマゾヒズムに支配されてきました。
その歳月は幸福であり、しかし不幸でもありました。
僕は今、同世代の男性達が当たり前に持っているものを何一つ持っていません。
育ってきた境遇も複雑でした。
積み上げてきたものを全て失った時、僕はご主人様と巡り会いました。
僕が非日常へと傾倒していったのは、現実があまりにも辛く苦しかったから。
現実逃避としてのSMは僕の心の拠り所でした。
だから、ご主人様の存在には本当に感謝しています。
マゾヒズムの快楽はノーマルなSEXでは決して味わうことができない“至高の快楽”だと思っています。
ですから僕はこれまで自己の性癖に関して悩んだり苦しんだりした事はありませんでした。
親の深い愛情は知りませんが、唯一マゾヒストに生んでくれた事だけは感謝していました。
しかし、今自分の人生を振り返ってみて、マゾヒズムによって救われてきた部分も多かったけれど、マゾヒズムによって失ってきたものも沢山ある事に気がつきました。
僕は奴隷年は2歳ですが、もう実年齢的にはだいぶ枯れてきてしまいました。
最近「僕のマゾヒズムはこのまま性欲の減退と共に消滅していくのだろうか?」とふと考えたりします。
そうだとしたら、僕のアイデンティティは一体どうなってしまうのだろう。
僕は性欲が芽生えるだいぶ以前、物心がついた頃からハッキリとした形でマゾヒズムを自覚していました。
幼児期から被虐妄想に耽りながらペニスに触れていたので、親に何度も叱られていました。
精通はなくてもエクスタシーはあるのです。
今の僕にとって“マゾヒズム”は単なる性癖を超えて、生きる意味の全てと言ってもいいかもしれません。
ご主人様との月一回のご調教だけが、仕事を続けるモチベーションになっています。
そんな僕のマゾヒズムが本当に終焉を迎える時が来るのだろうか?
以前は全くなかったのですが、ここ最近、ご主人様との関係性について悩む事が多くなってきました。
そして、一人でいると堪らなく寂しい思いに苛まれ涙が止まらなくなる事があります。
やはり異端者は孤独な運命なのでしょう。
このブログには、その時々の僕の想いを正直に書き綴ってきました。
ですからタイトルを含め、その内容に嘘偽りはありません。
ご主人様の奴隷としての生活がこれまでのM人生で最も充実している事は間違いありませんが、それはとても不安定な状況の上に成り立っている幸福だという事も事実なのです。
でも今の僕にはそこにすがって生き続ける以外に道はありません。
ですから、ある日突然自分の中のマゾヒズムが消滅したとしたら、逆に少しは楽になれるかもしれない…
最近ふとそんなふうに思う事があるのです。
女性への過剰な崇拝心や被虐願望、奴隷としての心の葛藤や、複雑な感情が全て消えたとしたら…新たな自己発見があるのか、それとも心にポッカリ穴が空いてしまうのか…
幼児期からずっとマゾヒストだった僕にはどちらなのかわかりません。
もしかしたら「瘋癲老人日記」の督助のように、このままマゾヒズムを墓場まで持っていくのかもしれません。
12月13日でこのブログを開設して2年が経ちます。
こんなブログでも愛読して下さっている方がいるので、少しでも長く書き続ける事ができればいいなと思っています。
今後もどうぞよろしくお願い致します。