手塚治虫とマゾヒズム
ここ数回、 「マゾヒズムに花束を!」 では、漫画やアニメ、テレビドラマなどのメディアが、いかにマゾヒズムの形成に影響を与えてきたかというテーマで語られています。
今回は、僕もそれに便乗して、少しだけチュクチュクしてみたいと思います^ ^
今の若いかた達はほとんど読まれた事がないかもしれませんが、昭和時代の漫画は手塚治虫に始まり、手塚治虫に終わったと言っても過言ではありません。
幼い頃から学年誌等で親しんできた手塚漫画は、僕の中では長らく健全な読み物といった認識でした。 親達もそう思っていたからこそ、安心して子供に買い与えていたのだと思います。
手塚治虫は生前、「漫画は子供にとっておやつのようなもの」と語っていましたが、彼の作品は一見、甘いお菓子のように見えても、口の中で噛み締めてみれば、辛かったり、苦かったり、子供の心に引っかかる複雑な味が絡み合って構成されていたような気がします。
小学校高学年位になると、この作家の作品が、意外にも深い闇をはらんでいるという事実に気がつき始めました。
アトムも、レオも、サファイアも、どろろも、丸っこい描線で愛らしく描かれてはいましたが、心の奥に深い哀しみや苦悩を抱えたキャラクター達でした。
虫プロが、アニメ制作の失敗による痛手を負って倒産した時、系列の出版社から大人向けの手塚漫画が、古本屋に大量に放出されました。
同じ時期に大都社という出版社からも、大人の手塚作品が続々と刊行されています。
当時、僕はそれらを片っ端から買って、貪るように読み耽りました。
大人の手塚は、子供にとって到底一筋縄でいくような代物ではなく、トラウマになるような話も沢山ありました。
とりわけ、女性が主人公の作品には、大人の女性美やエロスへの憧憬だけでなく、女性に対する言い知れぬ畏怖のような感情を植えつけられたものでした。
手塚治虫は少年漫画においては、明るく勝気な女性像を好んで描いていましたが、青年誌では全く異質の、魔性というよりは寧ろ魔物そのものと言った方が的確であろう女性達を、数多く登場させています。
石上三登志は著書「手塚治虫の奇妙な世界」の中で、手塚治虫のヒロイン造形は“昆虫のメス的であり、女王的である”と論じています。
昆虫世界においてはメスが圧倒的に優位であり、生存や適応能力に関しては生物中で最も優れている。と…
そこには、マゾヒスト達が理想として掲げる、女尊男卑の世界が形成されているのです。
オス達は、女王のもとで奴隷のごとく支配され、酷使され、最期は餌となって生涯を終えるものさえあります。
手塚作品のヒロイン達は、そうした昆虫の生態をモチーフに造られているという石上の考察は、的を射ているかもしれません。
加えて僕は、手塚自身が潜在意識の中で、女性という存在に“怖れ”を抱いていたのではなかったかと感じています。
様々な才能を吸収しながら、羽化を繰り返す蝶のごとく、華麗な変身を遂げていく「人間昆虫記」の十村十枝子。
自在に姿を変えて他人の人生を演じながら、男女の葛藤や運命の行く末を見守るIL(アイエル)。
地下深く眠る母の棺の前で、男達への復讐を誓う「地球を呑む」のゼフィルス七姉妹。
アル中のフーテン娘の風貌でありながら、いつの間にか男に取り憑いて堕落させていく魔女バルボラ…etc
妖しく美しい女達に内在する、無邪気で気まぐれな残酷性。
そこには永井豪の漫画のように、ストレートでマゾヒスティックな性描写こそありませんが、それ故に余計に深く、魂の暗部を狙撃されたような気がするのです。
手塚漫画のダークな一面は、綿密な計算のもとで描かれたものもあれば、作品を描いた当時の精神状態に影響されたものもあったようです。
手塚本人は顔をしかめながら、スランプや、会社経営が破綻した時期に、どん底の精神状態で描かれた作品を恥じていましたが、僕は寧ろ「アラバスター」や「ダスト18」など、暗い作風の中にこそ、手塚治虫の本質を感じ取っていました。
大人向けの手塚作品と、どん底の時期に少年誌に発表された手塚作品との遭遇は、ほぼ同時期で、僕にとって多感な世代へと足を踏み入れた時期に該当しています。
それらは、グロテスクで淫靡な香りを放ちながら、僕の内面にジワリと染み込んで増殖し、直接的ではないにしろ、マゾヒズムにも多大なる影響を与えたと思っています。
僕のマゾヒズムは幼少時に覚醒した後、漫画や小説、ドラマなどの影響を受け、さらにSM雑誌やビデオ、現実の女性達との関わりの中で育まれていったと言えるでしょう。
今回は、僕もそれに便乗して、少しだけチュクチュクしてみたいと思います^ ^
今の若いかた達はほとんど読まれた事がないかもしれませんが、昭和時代の漫画は手塚治虫に始まり、手塚治虫に終わったと言っても過言ではありません。
幼い頃から学年誌等で親しんできた手塚漫画は、僕の中では長らく健全な読み物といった認識でした。 親達もそう思っていたからこそ、安心して子供に買い与えていたのだと思います。
手塚治虫は生前、「漫画は子供にとっておやつのようなもの」と語っていましたが、彼の作品は一見、甘いお菓子のように見えても、口の中で噛み締めてみれば、辛かったり、苦かったり、子供の心に引っかかる複雑な味が絡み合って構成されていたような気がします。
小学校高学年位になると、この作家の作品が、意外にも深い闇をはらんでいるという事実に気がつき始めました。
アトムも、レオも、サファイアも、どろろも、丸っこい描線で愛らしく描かれてはいましたが、心の奥に深い哀しみや苦悩を抱えたキャラクター達でした。
虫プロが、アニメ制作の失敗による痛手を負って倒産した時、系列の出版社から大人向けの手塚漫画が、古本屋に大量に放出されました。
同じ時期に大都社という出版社からも、大人の手塚作品が続々と刊行されています。
当時、僕はそれらを片っ端から買って、貪るように読み耽りました。
大人の手塚は、子供にとって到底一筋縄でいくような代物ではなく、トラウマになるような話も沢山ありました。
とりわけ、女性が主人公の作品には、大人の女性美やエロスへの憧憬だけでなく、女性に対する言い知れぬ畏怖のような感情を植えつけられたものでした。
手塚治虫は少年漫画においては、明るく勝気な女性像を好んで描いていましたが、青年誌では全く異質の、魔性というよりは寧ろ魔物そのものと言った方が的確であろう女性達を、数多く登場させています。
石上三登志は著書「手塚治虫の奇妙な世界」の中で、手塚治虫のヒロイン造形は“昆虫のメス的であり、女王的である”と論じています。
昆虫世界においてはメスが圧倒的に優位であり、生存や適応能力に関しては生物中で最も優れている。と…
そこには、マゾヒスト達が理想として掲げる、女尊男卑の世界が形成されているのです。
オス達は、女王のもとで奴隷のごとく支配され、酷使され、最期は餌となって生涯を終えるものさえあります。
手塚作品のヒロイン達は、そうした昆虫の生態をモチーフに造られているという石上の考察は、的を射ているかもしれません。
加えて僕は、手塚自身が潜在意識の中で、女性という存在に“怖れ”を抱いていたのではなかったかと感じています。
様々な才能を吸収しながら、羽化を繰り返す蝶のごとく、華麗な変身を遂げていく「人間昆虫記」の十村十枝子。
自在に姿を変えて他人の人生を演じながら、男女の葛藤や運命の行く末を見守るIL(アイエル)。
地下深く眠る母の棺の前で、男達への復讐を誓う「地球を呑む」のゼフィルス七姉妹。
アル中のフーテン娘の風貌でありながら、いつの間にか男に取り憑いて堕落させていく魔女バルボラ…etc
妖しく美しい女達に内在する、無邪気で気まぐれな残酷性。
そこには永井豪の漫画のように、ストレートでマゾヒスティックな性描写こそありませんが、それ故に余計に深く、魂の暗部を狙撃されたような気がするのです。
手塚漫画のダークな一面は、綿密な計算のもとで描かれたものもあれば、作品を描いた当時の精神状態に影響されたものもあったようです。
手塚本人は顔をしかめながら、スランプや、会社経営が破綻した時期に、どん底の精神状態で描かれた作品を恥じていましたが、僕は寧ろ「アラバスター」や「ダスト18」など、暗い作風の中にこそ、手塚治虫の本質を感じ取っていました。
大人向けの手塚作品と、どん底の時期に少年誌に発表された手塚作品との遭遇は、ほぼ同時期で、僕にとって多感な世代へと足を踏み入れた時期に該当しています。
それらは、グロテスクで淫靡な香りを放ちながら、僕の内面にジワリと染み込んで増殖し、直接的ではないにしろ、マゾヒズムにも多大なる影響を与えたと思っています。
僕のマゾヒズムは幼少時に覚醒した後、漫画や小説、ドラマなどの影響を受け、さらにSM雑誌やビデオ、現実の女性達との関わりの中で育まれていったと言えるでしょう。